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「シビックプライド」と「郷土愛」との違いの語義解釈的アプローチによる一考察

地域の観光振興を進めるにあたり、年々重要度が増していくのが「シビックプライドの醸成」です。私個人も地域を観光推進で振興する大きな目的はここに還元て行きたいと考えています。また、ここをしっかり持って、関係者間で共有していると、観光振興の戦略から現場の最前線の小さな打ち手までどの段階でも、ぶれないですみます。さらに、思いがけないアイディアさえ生まれてきていると実感しています。

 本稿では、この「シビックプライド」とそれに似ている「郷土愛」の違いが再確認できるように書きながら確かめていきたいと思います。私自身も漠然とこの言葉を使うことがあるので、この言葉のもつ本質に辿りつきたく思います。


「愛する」と「誇りに思う」との違い


シビックプライドとは、「住人が抱くその地域に対しての誇り」だと解釈されます。

「それなら「郷土愛」ですか?」との質問が予想されますが、郷土愛と違うところは、それぞれの言葉に含まれる「愛」と「誇り」の違いによるものなのでしょう。

したがって、まず最初に、この二つの概念を、その違いを意識しながら、具体的に記してみます。


〇愛する・・・なにかを愛しく思う。大切に思う。理屈よりも、よりエモーショナルなもので、主観者の嗜好や審美眼を通して、好ましいと思えたものに対する感情である。したがって、主観者が対象を「愛する」ことで得られるものは快感を含んだ満足である。


〇誇りに思う・・主観者がなにかしらの「価値感」を持っている前提の下、その「価値感」を具現している対象に対して抱くポジティブで強い印象。したがってそこには自己投影的なものが内在し、自己と対象の同一的な世界が無意識のうちに形成されている。主観者が対象を「誇りに思う」ことで得られるものは、自己の価値感の再認識から生じるエネルギーである。


図に表わすと


「愛する」は

主観→対象

であるのに対して「誇りに思う」は

主観≒対象

が一番しっくりくるのではないでしょうか?


この前提で、「郷土」愛 と「シビック」プライドをとらえ直すと

もし、その土地でよからぬことがあった場合、

郷土愛をもつ人は、耳を疑い、拒絶する。または愛を失う。愛がさめてしまう。

一方でシビックプライドをもつ人は、残念に思い、自己が壊れたような切実な悲しみを感じ、あるいは、そのよからぬことが生んだ結果を修復したいように感じる。


「郷土」と「シビック」との違い


次に、郷土とシビックの違いについてその意味と特徴を考えます。

まず「郷土」です。

郷土・・・・物理的に測れる範囲はあいまいですが、以下がその範囲の決定因子でしょう。

〇自然地形を同じにしている意識

〇歴史・文化をひとつにしているという意識


一方で「シビック」とは、英語では「都市の」「市民の」の意味なので、そう解釈すると

「都市とは?」「市民とは?」と考え進めることになります。

狭義でいうと行政上区切られている物理的範囲となります。

これは、「郷土」と比べると、「自然」の対立概念である「人工」に多かれ少なかれ則っている印象があります。つまりそこには、必ずそれを作っている、または、それを構成している「人」が存在し、その結果「社会」が生まれています。つまり「シビック」には「地域社会に暮らす社会の構成要員として」という意味を孕んでいるといえるでしょう。


「郷土×愛」と「シビック×プライド」の違い


これらをかけあわせてできた言葉としてそれぞれ捉え直してみます。


「郷土愛」・・・主観者がそこにいることで自然と生じる、周囲を取り巻く環境に対する愛情。

「シビックプライド」・・主観者が一構成員であることを自覚することから生じる、大切にしたいと考えるその地域社会内にある価値に対する想い。


以上、「シビックプライド」と「郷土愛」との違いの語義解釈的アプローチによる一考察でした。

この続きは、近いうちに、2013年にNHKで放映された朝の連続テレビ小説『あまちゃん』の第78話での印象的なシーンをもとに、書いてみたいと思います。

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